蝉の声を聞きながら
2021-08-21


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明るい若草色の葉をつけた新緑の木立が、澄んだ水色の空を背景にそよ風に揺れているのを眩しく見上げていたのはいつのことだったか。ついこの前のことのようにも思えるのに、いつの間にか蝉の声も少し弱々しくなり、西の空が茜色の夕暮れのとばりに包まれる時も少しずつ早まってきている。一方、以前には想像できなかった南国のスコールのような瞬時の激しい雨と湿気をともなった真昼の厳しい暑さもまだまだ続いている。
 しかし、目に見えない時計の針は、足を速めることもなく、立ち止まることもなく、生きとし生けるものの上に等しくいつもと同じ歩みを進めている。明日の遠足の日が早く来てほしいと待ち望む子供の上にも。今日という日が永遠につづいてほしいと思っている幸せな恋人たちの上にも。辛く苦しい時間が早く過ぎ去ってほしいと願っている人の上にも。そして、無人の北極の氷河や灼熱の砂漠の大地の上のゆらめく陽炎の上にも。

 お気に入りの作家の短篇集を何十年ぶりに読み返している。ストーリーをはっきり記憶している作品はあまりなく、伏線が多くしかれた絶妙な話の流れにぐいぐい引き寄せられ、どんどん先を急いでしまいたくなる。しかし、そんな時、活字の並んだ紙の上から一度目を上げ、心の目で読み返してみる。すると、どうだろう。ストーリーの展開だけを追っていたときには見えなかったものが見えてくる。セリフにはない登場人物の内面が見えてくる。部屋の中の情景が見えてくる。季節感のある窓の外の景色が見えてくる。作り立ての熱々の料理の香りが立ちのぼってくる。海岸に打ちつける波の音が聞こえてくる。夜の降り積もった雪の上に、さらにさんさんと降り続くかすかな雪の気配を感じる。
 そして、再び開いたままのページの上に視線を落とすと、一文一文が豊かな表情をもって語りかけてくる。先を急がずに、言葉の美しさやイマジネーションをじっくりと味わってみる。しばし、時計の針を忘れて、その文章が生み出す無限の世界へ旅に出てみる。
[読書]
[自然]

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